なぜWWII前後のイギリス航空機は「英国面」か (part 1)

 昔からよく「英国面」という言葉を耳にするミリオタ諸君は多いだろう。最近ではニコニコ動画やら、ツイッターでもちょくちょくみる単語だ。まぁ、現在では随分と有名になったから、ちょっとマイナー兵器をこじらせれば一度は首を突っ込むジャンルである。

 一般的に英国面といえば、

こんなものとか


こんなものだったりするわけであるが、とりわけ、WWIIにおける英国航空兵器は、割と迷走というか、やたら種類だけ多くて、使えないものが多いという印象が高い。固定機銃を廃して機銃塔を設けてみたり、いろいろと性能不足であったり、艦載機に至っては1945年まで「ソードフィッシュ」は現役である。

 これらの珍兵器に対する様々な話題は本当に尽きないものだし、笑いの種にするのは大いに結構であるが、すでにそういったものは動画やまとめ記事で十分に上がっているので、すこし別の角度で眺めてみようと思う。

 さて、日本の航空機エンジンを称して、よく「職人芸」と揶揄するような言葉が見受けられる。曰く、「大量生産に向かず、整備も面倒で、精密なレイアウトなために一つ一つ手作りするしかない」というようなものである。

 しかし、1936年、のちにあの「スピットファイア」に搭載される「マーリン」の製造を開始しつつあったロールスロイスが、進んでいて流れ作業でエンジンを量産していたかといえば、そうではない。かの工場においても、いまだ工作機械のほとんどは20年物の初歩的なもので、旋盤工、フライス工が手作業でパーツを整形していたのである。これだけでも十分職人芸であるが、さらにそういったものに頼らず手作業で部品成型をするような職人も、こういった人員とほぼ同数が働いていた。

 この当時、航空発動機の市場というものは、手作り供給でなければ割に合わないほど狭いものであり、世界的に見ても、非常に小規模かつ手作業の割合の大きいものであったのである。しかしながら、1930年代後期、戦争に突入していく段階になると、航空機の需要は一気に増え、たった2、3年足らずでこの状態から大量生産へ移行しなければいけないという事態に陥ったため、世界中で発動機工場がなみなみならぬ努力をする必要があった。こういったなかでたくさんの会社が右往左往した結果がいわゆる航空機の「英国面」といわれる物品の数々へつながるのである。

 WWI終了後の1920年代において、イギリスの発動機のシェアを握っているのはネピアであった。ロールスロイスとは言えば、1925年までは軍用機エンジン市場で25%のシェアを握っていたものの、1929年には11%にまで落ち込んでおり1930年中に製造した発動機はたった132基というありさまであった。

 こういった中、起死回生の一手となったのが、戦間期主力爆撃機「ハーディ」などにも搭載された液冷エンジン「ケストレル」である。さて、この「ケストレル」、28~38年にかけて、4778基が生産されているが、これは日本の「誉」の約半分程度の数を10倍の時間をかけて作ったことになる。合計27機種に採用され、後半は軍備拡大のため大増産をしていてこの量であるから、当時の市場がいかに狭いものであったかがうかがい知れるだろう。

 当時の航空機エンジン業界というのはどこもそんなものであったが、1933年にナチスが台頭すると、イギリスもだんだんと軍備増強に乗り出すこととなる。こうした中、航空エンジン業界も当然のごとく増産を求められ、戦時の転換生産のための準備、「シャドー計画」もその一環である。

 しかしながら、航空エンジン製造はとても小さな市場であったため、提携会社への技術流出を恐れ、警戒した会社も少なくなかった。ロールスロイスもそのうちの一つで、ロールスロイスの提携先には高級車メーカーのハンバーであったが、なんとか自社の工場の能力拡大などで増産に対応しようとする。これによってロールスロイス ダービー工場の従業員は1300人の増員となり、下請け会社のマンアワーは約10倍に跳ね上がっている。そうなれば当然新たに下請け会社を増やさなければならないが、それはどこも一緒で、1934年以降、下請け工場の確保は争奪戦の様相を呈していく。今までは最終組み立て工場として多数の下請けを抱えていたロールスロイスであるが、こうなっては新たな体制を模索せねばならず、増産に対して大きな障害となりつつあった。

 さてこうして生産体制のほうにも問題をかかえていたわけであるが、一方エンジンの構造も大量生産など夢にも考えない設計となっており、そういった「ケストレル」大量発注の処理に苦心しているところに、さらに「マーリン」の量産立ち上げというタスクが上乗せされ、当然「マーリン」も今までの体制を前提に設計されていたものであるから、当時のロールスロイスは非常に苦しい立場に置かれていた。

 こうした苦境の中、それまで増産を続けていた生産量も、1936〜37年では50%にまで落ち込み、従業員数も横ばいとなってしまう。こうした事態を受け、軍からの「マーリン」の発注は下方修正をうけ、同時に「マーリン」装備機の生産、「マーリンI」から「マーリンII」への換装ともに大きな影響を受けることになった。



 さて一方で、20年代当時民需の航空発動機のシェアを握っていたブリストルのほうはどうであったかといえば、軍需中心であったロールスロイスとは異なり、民需に大きなシェアをもっていたため、ある程度生産コストに対して関心は高かった。ほぼ言い値で買い取ってもらえる軍需にくらべ、価格に厳しい民需を中心にシェアを持っていたのだから当然のことといえるだろう。

 そのブリストルだが、「シャドー計画」に対する態度はロールスロイスと大きく変わらず、技術流出の可能性に難色を示し、強く反対はしていたものの、この方針に真っ向から対立せず、ある程度の妥協をしたところが異なった。彼らは計画を受け入れる代わりに、うけおいの各社に工程ごとに分割した作業を割り振る形態を採用したのだ。こうしてロールスロイスより一足先にシャドー体制に参加したブリストルは、自動車メーカー各社に対し親会社として生産指導をする立場となるのだが、自動車メーカー各社から見れば、その生産体制はあまり参考になるものではなかったようである。

 ブリストルがコスト面に気を配り、効率よくシンプルに整理された作業工程を持っている・・・といってもそれはあくまで航空発動機業界においてのことで、子会社として割り当てられた会社の一つ、オースチンなどは「汎用機ばかりで生産性が悪く、効率の良い専用の単能機を導入しなければ政府の要求する数量を納期までに製造できない」とまで述べている。ここでいう「汎用機」とは要するに工業高校などで教材に使われる旋盤やらフライス盤のことであり、自動車製造会社からみればまだまだ旧式もいいところであったのである。

 しかしながら、結局子会社となった自動車製造会社各社は単能機の導入を行わなかった。その大きな理由は受注見込みに対する不安であったろう。たとえばこの時ブリストルの「マーキュリー」発注計画は1500基であったのだが、その後果たして継続して発注があるかどうか、あったとして、もし違う型式であればどうするのか、といった問題である。この問題のために、子会社各社は親会社ブリストルの生産ラインをそのままコピーすることとなった。おかげで生産性の向上はさほど望めなくなったが、一方で実績ある工程をそのまま再現できたため技術的指導は受けやすくなり、とりあえずは順調に進展したようである。

 とはいえ、子会社各社はコスト削減に注力していたため、「マーキュリー」の価格は1500基のうち最初の500基こそブリストル製に対して高価であったが、次の500基ではブリストルより低価格で提供することに成功し、最終500基に関してはブリストル製の70%程度にまで価格を抑えることに成功した。そして航空省からはさらに追加1500基が追加されることとなるのである。

 こうしてとりあえずはブリストルは軍用発動機分野の「シャドー計画」において、最初の成功例となるのであるが、ここで大切なことは、航空機発動機業界においてもっともコスト、生産性を重視したであろうブリストルであっても、その生産ラインは当時有力であった自動車メーカーからすれば、「旧式で非効率」な体制であったということである。日本の航空発動機製造が専用機へと移行するのは40年代のことであるが、イギリスでも案外状況は似たようなものだったのだ。


part 2へ続く。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

0コメント

  • 1000 / 1000