なぜWWII前後のイギリス航空機は「英国面」か (part 3)

さて、英国の航空軍備拡張計画は34年にスタートしている。それまで国内向け飛行機の生産は1933年時点で663機であったが、1934年度には中期の増産計画が策定される。これが「スキームA」という計画で、1934〜39年の間に本国空軍の兵力を1252機に増強するための生産計画である。

 それまでの兵力が約800機程度で推移していたため、おおむね50%の兵力増強であったが、この計画は翌年度にすぐに改正され、「スキームC」として1937年までに本土兵力を1512機に増強し、年度の生産計画を1900機へ引き上げるものであった。前年の飛行機生産実績は1108機であったため、実に70%の生産増強となる計算となる。

 これらの計画はアルファベット順に試案が存在するため、当然BもDもあるのであるが、採用されて導入されたのはA、C、F、Lの4つである。段々と間隔が開くのは増産計画について年度を追うごとにさまざまな問題が発生し、そのたびに対応策を検討したからで、初期の「スキームA」、「スキームC」には本国空軍の装備する奇数の増大、同時に現有の旧式機を更新するという目的があった。別に英国空軍は「保守的」なわけではなく、現在主力としている機種が他国に対して遅れていることをよく認識していたが、更新のためには、設備を改善し、新しい金属製機の生産に適応させることが重要である。けれども英国の航空機製造会社は一部を除ききわめて小規模な会社であったため、大規模な設備投資に踏み切ることが難しく、新型機の生産見通しはきわめて先行きの暗いものであった。

 しかし、増産計画はまた翌年に改正、「スキームF」となり、1936〜38年の間に本国の兵力を1736機、年間生産を2667機へ増産とさらに目標の引き上げが行われた。冷静に見れば、対独戦を考えるならこの程度の増産では足りなそうな印象を受けはするが、この時点までは対独戦よりもむしろその抑止を主眼としたものであったということも重要なポイントである。さてこんな環境下で、「スキームF」を達成するために製造会社のグループ化が採用された。ある重要機種をできるだけ早い納期で大量に生産するために複数の会社をグループ化し、組み立てや下請けなど役割を振り分けるという手法である。数の必要な戦闘機、爆撃機を中心にこの手法を採用したのであるが、これは同時に英国空軍が装備すべき機種の絞込み、重点化を意味するものである。なぜなら機種をできるだけ統一しなければグループ化はできない上、増産にも不都合が出る。機種削減と機種統一は、空軍増強の大前提ということは、非常によく認識されていたのである。

 ところが諸兄もご存知のとおり、1930年代を通じて英国空軍には多くの旧式機とさらに多くの新型機が混在してしまっている。機種削減も統一も、する気がないといわんばかりの状態であるが、これには理由がある。

 英空軍は「フューリー」、「ハート」のような複葉機から「ハリケーン」や「バトル」などの単葉機へと機種改変をしようとしていたが、結果的には旧式機の生産は続行、新たに導入される機種も、様々な問題を抱えた雑多な内容となっている。

 旧式機の生産が継続された理由の第一には、増産計画の期限の問題があった。「スキームC」では、1936年からの2年間で大増産を行うことが計画されている。そのためには新設計の機体の生産体制を整えるだけの余裕は、とてもではないがあったものではない。現用の旧式機を生産しつつ、一方で新型機の大量生産を行うなど、そんな強大な力を持った製造会社はこの当時英国には存在しなかった。どの製造会社も規模が小さすぎたのである。

 第二には、新型機の増産に伴う技術的問題である。たとえば英空軍としては爆撃機部隊を軽爆から中型爆撃機へと更新したいのであるが、その性能が満足できる水準の機体と考えられていた「ウェリントン」の生産は、この機体が特殊な構造を採用しているため専用工場でしか生産ができず、他社工場へと転換生産ができないため、グループ形成そのものが難しいような状態であった。このせいで、「スキームF」で必要とされる「ウェリントン」360機のうち、専用工場では180機の生産見通ししか立たなかった。これは、他者に生産を割り振れないという問題に加えて、さらに増産計画の一環として受注済みであった旧型機「ウェルズリー」の生産の納期も迫っていたためである。第一、第二の理由の重なった典型例であるが、その解決策もまた、英空軍として典型的なものであった。

  それがハンドレページへの「ハンプデン」発注であった。計画の納期、および技術上の問題により第一の候補ではない機体を発注せざるを得ないという状況は、なにもこのケースだけではない。たとえば「スピットファイア」の採用もおおむね同じような経緯をたどったものであった。

 「スキームF」の元で1938年度末までに900機の新型戦闘機を取得したい英空軍であったが、ホーカーの生産量では納期までに全力をだしつくしても600機が限界であった、ここで残り300機を「不本意な」機体で補う必要が現れ、本来は「フューリー」を引き継ぐ「ハリケーン」によって単葉単座戦闘機の機種統一が図られるはずであったが、「スキームF」の計画上、残り300機を「スピットファイア」で補填せざるを得なかったのである。同じ試作発注年度、同じ発動機、似たような武装の2つの戦闘機が英空軍に同時採用された理由はこういったもので、いまでこそ高評価を受けている「スピットファイア」だが、もとは重点機種の統一化という方針の徹底に失敗したために生まれた戦闘機なのである。


part 4へ続く

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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