2度の大戦で戦術はどう変わったか 第1部 塹壕戦 (part 1)

 1914年、たった一発の銃弾に端を発したWWIは世界史上初の国家総力戦となった。当初は「クリスマスまでには終わる」と各国は楽観的ではあったが、いざ始まってみれば、前線で互いに膨大な兵士をすりつぶしつつどちらかの力が尽きるまでひたすら消耗を続けるという、地獄のような戦争が待っていたのである。実に5年間で900万人もの人員が戦死する大戦争となったWWIであるが、この戦争で初めて行われた「塹壕戦」というものはいかなる戦術であったのだろうか。


 塹壕とは、砲弾や銃弾から体を守るための穴であり、前面に直立、またはひざ立ちで肩が出る程度の足場を設け、その後ろには一段下がった移動用の通路、前面と後面には掘ったときの土砂を盛り、出入りのために足掛けを設けるものである。つまりは、完全に隠れることのできるほどの穴を掘り、前後の大地そのものを遮蔽物にするもので、場所によっては、掩蓋とよばれる上面も覆われた部分も存在する。さらに、本格的な準備砲撃などが始まれば、さらに奥深くに退避壕という場所で安全に隠れることすら可能である。

この塹壕は砲撃に対して大きな防御効果を発揮し、どれだけ準備砲撃をしたところで、一定数の兵士は掩蓋や退避壕で生き残ってしまい、どうにも前線は進まなくなってしまうのである。さらに、塹壕はたんに横一列に延びる壕だけではなく、縦にもつながっており、何層もの厚みのあるネットワークのように造られるようになっている。

塹壕一本一本は狭くとも、それの構築する防御線の規模というものは、十分な縦深をもった非常に大規模なものなのである。

 こういった理由から、WWI中は準備砲撃が数日にわたることもざらにあり、最初期には要塞戦をベースに砲撃の計画などを構築したため、重砲なども持ち出される盛大な砲撃戦が展開された。敵の防御陣地たる塹壕のネットワークや、そこにいたるまでに設置された鉄条網によって構築された防御陣地を直接撃破するためにはそれほどの砲撃が必要だったのである。さて、そこまでの準備砲撃をもってしても、塹壕を沈黙させることはほどんどできず、いくら猛砲撃を加えたところで、強固な塹壕を根絶やしにすることは不可能であった。簡単な掩蓋でさえも、きれいに砲弾が直撃しない限り撃破は厳しいものであったのだ。そして沈黙させることのできなかった塹壕の防御火力は、歩兵の突撃を瞬く間に打ち砕いてしまうのだ。ただでさえ砲撃の穴で足場の悪い地面、そこに設置された鉄条網が歩兵の足止めをする。当然足を止めれば機銃の掃射で一瞬で死んでしまうので、歩兵はなるべく鉄条網の薄い場所を突破しようとするのであるが、そういった場所にはあらかじめ十字砲火になるよう機銃が設置されており、必死に突破しようとする歩兵をなぎ払う。このように鉄条網と機関銃の側射によって、兵力は簡単にすり減らされてしまうのである。さらに、そこにたどり着くまでにも攻撃を止めるための阻止砲撃が降り注ぐ。この阻止砲撃の威力もすさまじく、実際1914年のフランス軍の戦死者の75%は砲撃によって死亡している。塹壕に対して砲撃はほぼ無意味であるのに対し、塹壕に守られていない場所では着弾点から50メートルは離れていても死亡する可能性があるほど砲撃というのは危険なものであった。さらに戦争後半では、攻勢開始を察知されてしまえば、塹壕から這い出てすぐの無防備なところに「疾風射」とよばれる砲撃を打ち込まれ、完全な先制攻撃で全滅させられてしまうパターンも出てきてしまうのである。

当時の歩兵には、このような状況下でひたすら突撃する以外に突破する手段はなく、たとえ突破したとして、その先にも更なる脅威が待ち受けているのである。なぜならば、突破して確保した塹壕というのは、敵の作った塹壕であり、敵は突破されたときのために、事前にどこにどのように砲撃すれば効果的であるか、迎撃計画を立てており、たとえ確保したところですぐに奪い返されてしまうのであった。さらに、当然そこに歩兵も投入され、すぐに前線の穴はふさがれてしまう。予備隊による逆襲が、防衛線全体の冗長性を高める結果となり、攻勢側からすれば、大きな損害を出して得た戦果がまたたくまに無に帰してしまうということになるのである。そもそも、攻撃側は数日間にわたって準備砲撃をするのであるから、とうぜん防御側にも十分兵力を強化する時間はあるわけであり、ただでさえ道中で損耗した兵士は、制圧でさらに磨り減り、そこにあらかじめ用意されていたそういった対抗策で、数で押しつぶされ簡単にもとの前線へと戻ってしまう。万一そこが保持できたところで、そのおくにはさらに同様の塹壕が待ち構えており、当然進撃すれば砲撃が降り注ぐ。そのうえ、そこのみが敵中に突出した部分となり、防御戦全体で見ても守りづらい場所となる結果となってしまうのである。結果、砲撃しても敵戦力は沈黙しない、突撃すれば戦力はいたづらに消耗し、突破すれば一瞬で押し戻される。一日50m進めばいいほうであるといわれた防御側絶対有利の構図は、こうして誕生したのである。

 ではどうするか?戦術の見直しが行われた結果、大規模な改革が行われる。従来の歩兵は中隊が基本的な最小単位であり、これはおよそ250人ほどの人数であった。これを3つに分けた小隊の2つを前面に配置し、1つが予備、または支援として後方へのこるのが一般的な方法であった。正面での射撃戦は、それぞれとなりと3歩ほどの距離を開けて歩兵が展開するいわゆる散兵戦と呼ばれる陣形で戦っていた。

小隊に分かれている、とはいうものの、基本的には「中隊長が徒歩で指揮可能な範囲で直接行動する」程度のもので、基本的には中隊で一塊であり、あくまで中隊長の指揮下で、という前提のため、散兵とはいうものの、現代基準で言えばかなり密集した陣形となっていた。イメージとしては、学校のクラス3つ分くらいの人数が、いわゆる手を前に出しての整列をして、そのまま横を向いた状態をイメージするとわかりやすいかもしれない。この従来型の歩兵中隊は全員が小銃によって武装されており、機関銃は基本的には歩兵大隊、もしくは歩兵連隊の管轄下にある兵器であった。これを、もっと融通の利く形に変更することに最初に成功したのがフランスで、それは戦闘群戦法とよばれ、これまで中隊の一部でしかなかった小隊を、さらに半分に分けた14名程度の半小隊にあるていどの裁量を与える、といった改革を行った。その鍵となったのが、少数でも運用できる軽機関銃で、軽機関銃の火力支援の下、半小隊は、少人数でも大きな火力を発揮することが可能となったのであった。

 どれだけ裁量ができたところで戦闘力がなければ先頭の続行が不可能であり、そのための火力を与えるために、軽機関銃を与えたのであるが、これは現代にも通じる戦術であり、現代ではこの役割は、分隊支援火器が担っている。さらには歩兵中隊は歩兵砲、迫撃砲などの支援火力を手に入れ、歩兵中隊の迫撃砲などの支援の下、軽機関銃を装備した歩兵分隊が相互支援するような歩兵小隊が突撃するという、いわゆるファイアーアンドムーブメントの始祖は、こうして出来上がったのである(というか、この時点で小隊、中隊規模では完成されたといってもよい)。

 しかしながら、知名度でいえばドイツの突撃歩兵のほうが有名であろう。彼らは軽機関銃のみならず、短機関銃を装備していた。狭い塹壕内の近接戦闘においてこれは非常に効果を発揮し、当時、拳銃どころか棍棒など打撃武器まで先祖がえりしていた塹壕内の戦闘において、連射武器を携行できるというのはかなりの強みであったといえよう。そしてこれらを支援するのが火炎放射器や歩兵砲で、味方の砲撃の直後に突入、混乱した敵の弱点を突破、後方に侵攻するのがこの戦術の主な目的である。塹壕の強固点を無視し、後方に浸透。同期して再び、こんどは後方に突入のための砲撃を開始。同じ手段で第二線も無視。このころに第二波を投入。突破に失敗した部隊は無視し、成功部隊の後を追わせて成果を拡大、第一波はそのまま第三線を突破し、敵司令部を直接攻撃、これを撃破、指揮系統を麻痺させる。それに乗じて第二波が第一波のあけた穴を広げるように制圧を開始し、これを制圧する。敵の予備隊も対応しようとはするものの、指揮系統の寸断や、それに関連する混乱で、適切に穴をふさぐことができなくなり、対応できないまま、制圧されてしまう。これが所謂浸透戦術というやつである。1918年のドイツ軍春季攻勢時、彼らは初期からは考えられないほどの大攻勢に成功し、この戦術の有効性が証明されたのである。


 とはいえ、この戦術にも弱点はあった。それは所詮は歩兵であるため、敵の混乱が続かず、縦深がありすぎると、後が続きにくいこと、そもそも、後を続けるには砲兵が必要だが、その砲兵と足並みをそろえてしまっては、敵が混乱から立ち直ってしまいやすいことが問題だった。要は機動力が足りなかったのである。


次回、満を持して新兵器の登場です。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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