2度の大戦で戦術はどう変わったか 第1部 塹壕戦 (part 2)

 さて、塹壕に進撃した兵士が機関銃になぎ倒されてしまう、ということに単純な解決方法を思いついた人間がいた。兵士を壁で囲って守ってやればいいのである。そういった発想は前々からあったものの、それに動力をつけ、より使いやすくしたものが戦車の始まりである。世界初の戦車、Mk.1戦車はこうして誕生した。戦車は自走し、装甲で銃弾をはじき、搭載された火砲で銃座を直接攻撃ができる。ある意味、戦車はナポレオン時代の砲兵のように、前線で敵と直接戦う役割を担っていたわけである。こうして登場した戦車は、戦場の兵士たちにすさまじいショックを与えた。1916年、ソンムの戦いに初投入された戦車は、それを始めて目にしたドイツ兵を恐慌状態へ陥れたのである。しかしながら、当然しばらくすれば対処法というものも確立してくるもので、小銃用のタングステン鉄鋼弾、対戦車ライフル、野砲の直接射撃などでの対処が始まった。あるいは、戦車の越堤能力を超えた人工的な地形、対戦車壕というものを掘る、などという対策も採られた。

特に、戦車を完全にアウトレンジから狙撃可能な野砲は、戦車にとって大きな脅威であった。歩兵の援軍を砲撃、機関銃等で排除、孤立した戦車を野砲の遠隔攻撃で撃破、もしくは歩兵による死角をついた対戦車攻撃で撃破する、という戦術はこのころに確立され、これは野砲をミサイル、銃をロケットに兵器を変えることで現代でも使われている方法である。この時点での戦車は、確かに強力な兵器であったが、一両に8人も詰め込まなければならなかったり、信頼性が低かったり、居住性が悪かったりと、(とくに信頼性は劣悪で、戦場に到達できない戦車も多数あった。)かなり問題の多い兵器であった。しかしながら、戦車が戦場に登場したことは大きな意味を持ち、歩兵、砲兵、戦車の共同作戦はそれなりに威力を発揮できたのだ。

 また別の新兵器として、毒ガスも大規模に使用され始めた。ガスは気体であるから、塹壕に到達すれば、その内部に簡単に広がってゆく。初めて毒ガスが投入された第二次イーペルの戦いにおいて、フランス守備隊が瞬く間に潰走するほどの威力を発揮した毒ガスであるが、こちらもすぐに対応策が出来上がり、ガスマスクが配備されるようになると、一瞬で敵を撃破するほどの効果は失われてしまった。だがしかし、マスクが間に合わなかった兵士を殺傷したり、未対策の新ガスや、あるいはマスクをかぶらせるという行為そのもの、または煙幕としての効果は残った。最初は単にボンベから放出していたガスだが、それではあまりにも不確定要素がありすぎるため、だんだんとガス弾を使用するように移り変わってゆく。砲弾を使えば、敵のすぐ近くでガスをまけるようになるだけではなく、後方の砲兵や移動中の兵士にも効果を発揮できることも強力であった。

 さらにはこのWWIにおいて、有史以来初めて、動力航空機が戦場に姿を現すこととなった。この利点はなんといっても、地上より短時間で、ずっと多くの情報を得ることができる点だろう。

地上からでは物理的に見えない位置であっても、航空機であれば、障害物のない空を経由して、真上から見下ろすことができた。これが何を意味するか、それは航空機さえ自由に飛ばすことができれば、従来より圧倒的に多くの情報を、瞬時に得ることができるということである。つまりは、兵力の厚いところ、薄いところ、物資の流れ、そこから推測できる攻勢開始点や時期、弱点、砲兵の位置・・・指揮官ののどから手が出るほどほしいほとんどの情報はすべて手に入ってしまうのである。だからこそ、最初の軍用機は、「爆撃機」でも「戦闘機」でもなく「偵察機」だったのである。そしてこれを追い払うために戦闘機が出来上がる。戦闘機は、敵偵察機に偵察をさせないために生まれたものなのである。もちろん爆撃も登場し、地上敵兵力に対する直接攻撃も実施される。こうして、偵察をさせず、こちらが一方的に偵察、爆撃をするための航空戦が生まれ、そこから制空権、という概念が生まれるのである。この偵察機は塹壕戦に非常に強力な力を発揮した。まず砲兵が最前線より後方の目標の位置を正確に把握できるようになったことがあげられる。航空偵察を元に、砲兵が目標物を選ぶための地図を詳細に書くことができるようになるわけである。それによって、以前よりもっと効果的な砲撃ができるようになったのだ。奇襲効果を重視した短時間砲撃、というのが成立するのもこれがあってのことで、まったく見当違い名場所を短時間砲撃してもまったくの無意味なのである。また、敵砲兵の位置の探知も、航空偵察と音響探知によって以前より容易になり、敵砲兵の排除を目的とした対砲兵戦が重要となってくる。前回説明した、突破しても敵の砲兵の反撃で簡単に押し戻されてしまう、という状況が、敵砲兵の撃破によって、劇的に変わり、安心して増援を投入できるようになるのである。さらには敵陣地に逆に阻止攻撃をかけることによって、敵予備隊の逆襲を防ぐ効果も期待でき、相手の反撃に対して、なすすべがなかったものが、一転、カウンターをくわだてることができるようになったわけである。このように前線を直接支援しない砲兵を、全般支援砲兵といい、徐々にこちらの比率が高くなっていった。つまりは、塹壕の最前線だけではなく、縦深をもって形成された塹壕の、さらに奥地までを目標におさめることとなったわけだ。また最前線への砲撃にも、敵を混乱させるための制圧射撃という性質を持つようになり、従来の敵陣を撃破するための砲撃というものはもはや不可能であるがため、歩兵が突入するまでの間一時的に「無力化」することに重点を置いた攻撃をすることとなったのである。

 そのため、歩兵の突撃と無力化の効果時間を合わせなければならないため、歩兵と砲兵の密接な協力が必要になり、たとえば航空機の観測に加え、砲兵の観測員が、電話線を引きつつ歩兵に随伴するといったことが試みられるようになる。とはいえ、このへんの連携はWWIにおいてはまだ完全ではなく、たとえば歩兵の直前を砲兵が制圧する、移動弾幕射撃を大規模に行ったニヴェルの攻勢は技術的な難易度によって効果がないままに終わってしまう。また、事前の砲撃計画に歩兵があわせる、というのもえてして計画通りにはいかないもので、この前線歩兵と砲兵の効果的な連携を可能にするシステムの構築が、WWI後の陸軍の大きな課題となったのである。

 こうして、WWI後の陸軍には、諸兵科連合の重要性が認識され、後の戦術に生かされることとなる。

 次回、第二部。ドイツ軍の構想した電撃戦を中心にすすめます。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

0コメント

  • 1000 / 1000