フランス空軍はなぜ負けたか? part.1

 第二次世界大戦主要参戦国空軍の中で、評判の良くないものといえばイタリア、そしてフランスである。特にフランス空軍は、WWIでのドイツ空軍を圧倒した実績、当時の最先端を行く技術、思想を持っていながらあの体たらくと落差が激しいだけに、なおさらであろう。

 だがフランス空軍が一体どんな道をたどって、どう負けたのかを知りたくとも、日本語でそれらが書かれている書籍はほぼないに等しい。であるから、多くの人はなんとなく「旧態依然な戦術思想が原因」だとか、「人民戦線政府が諸悪の根源である」だとかいう認識で片づけがちなのであるが、とはいえ、「思想が旧式」であるならどこがどう旧式であるのかを明らかにしなければならないし、「左翼政権が悪い」のであれば、それ以前はよかったのかを知りたいのがふつうである。

 結論から言えば戦略、戦術には問題はあったし、左翼政権の政策は悪影響を及ぼしたのであるが、それだけで片づけられるほど単純な話でもなかったりするのである。確かに戦術面に問題はあるものの、同時に利点もあったし、左翼政権に移ってから急にフランスが没落したというわけでもない。フランス空軍がWWIIまでに軍備が整えられず、旧式な機体が更新されず、運用思想の発展さえしなかった理由はもっと古く、深いところにあるものだ。

 フランスの航空業界がドイツに肩を並べられなかった最大の理由は、1920年代のフランス政府の採った航空技術行政、および30年代前半の空軍独立時代の軍用機開発方針にある。人民戦線政府は左翼政権であるためあれやこれやと悪く言われたりするのであるが、こと航空軍備に関してだけ言えばそればでの悪しき結果に必死にあがいただけに過ぎないのである。

 20年代のフランス軍用機開発は「プロトタイプ政策」なる異質な方針の下で行われている。これは軍縮の気運による予算圧縮の流れの中で生まれたもので、新鋭機の施策は通常ペースで発注するものの、実際に配備する量産機の八流派最低限の機数に絞り込む、もしくは発注そのものを行わない、という政策である。つまりは、試作発注を定期的に行うことで設計技術の保存を図り、実際の配備を減らすことで予算上の問題を解決する、という政策なわけであるが、これは飛行機製造業から量産という重要な利潤をとりあげ、その経営をきわめて圧迫するもので、これは航空機業界からは非常に恨まれる政策であったことは言うまでもない。

 この政策のおかげで、各製造会社の経営状態は初期のイギリス以下であり、設備もそれ以上に旧式なもので、文字通り職人の手作業中心の業界であった。さらに悪いことに、この職人たちの待遇は劣悪で、38年となっても時給は7₣(当時のレートで21¢)であった。これでは現場の士気は下がるなというほうが無理であろう。軍拡時代を迎えてもこれらの改善は一向に進まず、その後の、一般には左翼政権の失策とうたわれる航空工業国営化政策によってのみ、かろうじて一部の工場の近代化が進んだ程度である。

 ナチスの脅威に対応すべく、航空軍備の近代化と拡充を進めようとした33年にフランスが直面した問題とは、国内の航空機工業が軒並み瀕死である、という深刻な事態だったのである。この年はまた、フランスの航空部隊が空軍として独立した年でもある。今回の一連のシリーズでは、この瀕死の航空業界と、空軍の独立から始まったフランスの航空再軍備が、どう進んだかを追いかけていきたい。

 さて、33年のナチス台頭により、ヨーロッパ諸国に軍拡時代が訪れることとなった。フランスでも同年に空軍の独立、および新しい軍備に向けての諸政策が進められている。この時期の航空相に就任したのがピエール・コットである。コットは航空軍備に非常に理解が深く、空軍独立思想の牽引的役割を果たした重要人物ではあるが、航空機工業界に対し、軍用機の設計、生産にまで及ぶ厳しい統制、干渉を行い、深く対立してしまうこととなる。プロトタイプ政策時代に積み重ねられた政府への不信が、非協力的態度として現れた一方、コットはことあるごとに国営化をにおわせ、恫喝の道具に使うような強硬な態度をとるようになる。コットの空軍論自体はなかなか興味深い点も多いため後で触れることとするが、良い面もあれば悪い面もあるというわりかし当然な話なまでである。

 コットが33‐34年にかけて航空相を務めた時代に実施された政策で最も特徴的なものが「BCR構想」である。これは「爆撃、戦闘、偵察」の頭文字で、これらを兼任できる万能機を主力に据えることで、機種の統一、および任務に対する柔軟性を確保するというものである。この万能機はどんなものかといえば、例えばアミオ143、ポテ63シリーズ、ブレゲー693など、30年代後半のフランスにやたら登場する多目的双発機が、その正体である。このような万能機構想がうまくいくはずがない、というのは現代のわれわれからすれば容易に想像できるのだが、当時の常識でこの構想を眺めると、そこには十分な魅力というものがあった。その背景には、当時世界に蔓延していた戦闘機無用論、およびドーウェの思想の影響がある。双発機の性能向上ペースの速さ、単発複葉戦闘機の性能限界が相まって、戦闘機無用論を作り上げていたわけであるが、そこにドーウェの主張する飛行巡洋艦隊的な空軍論が、双発万能機を後押ししていたのである。フランスにもドーウェ主義は浸透していたため、空軍論の元祖の唱えるスタイルに権威がないわけがなかったのである。

 「BCR構想」はそうした多目的軍用機を装備することで、フランス空軍の装備していた旧式機を更新、36年までに1010機の「BCR」を配備して抑止力とする、といった構想であった。多目的双発機中心の配備とすることで、配備された兵力を臨機応変に使いたいという狙い、そしてフランス空軍に課せられた地上軍と艦隊への支援、および空軍独自の作戦を両立させようという発想でもあった。フランス空軍は独立空軍であるものの、だからといって陸海軍への支援任務から解放されるわけではない。「BCR」にはこういった相反する任務を両立させるための解決策という側面もあるのである。専門機種ではなく、多用途に使える「BCR」だからこそわずか1010機の配備で済むと考えられていたし、「BCR」だからこそ陸海軍からの支援要求と空軍独自の作戦を両立できると期待されたのである。そしてなにより、フランスの航空機工業はこの水準にすら追従できないほど弱体化しており、この構想にはなおさら無視できない魅力があったのである。

 「BCR構想」がもたらしたのはなにも機材面の目新しさだけではない。乗員の訓練方式もまた「BCR」に特化したものとなっている。「BCR」の基本は爆撃機であるが、この爆撃機部隊が敵戦闘機と空中戦を行う場合、編隊を組んだまま旋回機銃で対抗するわけであるから、単機での偵察を除けば編隊行動が最優先される。したがって編隊行動中心の訓練と、乗員すべてがほかの乗員の任務をカバーできるよう、航法、射撃、爆撃、操縦の訓練が行われ、飛行機が万能なら乗員も万能を求められたのである。しかしながら、このような万能機を実現するのは、設計、発動機などですぐに限界に突き当たることは目に見えているのであるから、「BCR構想」による新型双発機はほとんど見込みがないという否定論は36年には早くも決定的となってしまっている。万能であるが故、速度も、爆撃機としての能力も不十分な「BCR」は単発単座戦闘機に対抗できないと、その提唱者であったコットですら口にするようになる。

 そうはいっても、当時のフランスにはそれに代わる新型機の開発は時間がかかりすぎるうえ、ドイツの再軍備進捗状況を見ても、航空軍備の更新は急務であったため、開発中の「BCR」を簡単に捨て去ることはできなかった。しかもフランス空軍は訓練体系をこれに特化させてしまっているため、ここからの転換は単に機材の更新で済む話ではなかったのである。こういった理由でモランソルニエMS406といった単発単座戦闘機の配備は遅れに遅れ、高性能のデボワチンD520、十戦闘機ブロックMB151系はなおさらである。こうした機種構成の不適切さが際立ったのは40年5月のミューズ川渡河阻止作戦であろう。もしかすればドイツ軍の突破を阻止できたかもしれない航空阻止作戦に延べ数百機を投入しながら十分な戦果は確認できず、出撃した「BCR」攻撃隊の大半は未帰還となってしまっているのである。

 戦争末期に日本の海軍航空関係者の漏らした「烈風が200機あれば・・・」という感想があるが、この戦場にもし、D520が200機程度で制空任務に就いていたならば、ドイツ空軍の活動は極めて限定されたであろうし、その結果「セダン突破」は失敗し、選挙区が変わったかもしれない。制空権のない機動突破作戦など考えられないからである。「BCR構想」の背景にはそれなりに合理的判断があり、フランス空軍特有の避けがたい政治、財政的事情もあるものの、そのもたらした結果はまさに痛恨の極みであった。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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