フランス空軍はなぜ負けたか? part.2

 フランスの航空機工業界は20年代のプロトタイプ政策の影響で疲弊していたものの、33年以降の航空再軍備時代にも、再建策の不徹底と政府と業界の間の深い溝の存在から、その立ち上がりは非常にゆっくりとしたものだった。そうしたWWII直前のフランス航空機工場の実態についてのレポートが存在する。報告者はアメリカ、ベル社のローレンス・ベルで、38年夏にフランス政府の承認を得て各地の航空機工場を視察、アメリカ陸軍航空隊に報告しているが、この報告には当時のフランス航空機工業界の抱えていた欠陥が実に率直に述べられており、空軍の機材更新が非常に困難であったことがよく理解できる。

 ベルが最初に訪れたのはアミオ社で、ベルはアミオの工場について、「非常に貧弱な工場で、天井が低く、照明も不十分で薄暗く、全体的にだらしなく、設備も旧式で、作業者は訓練不足で十分な技能を持たず、しかも仕事に対する積極的姿勢がない。」と散々な評価を下している。つづいて彼はモランソルニエも視察しているが、その評価はアミオと大差なく、最低のものであった。このようなベルの評価に、フランス航空省は困惑している。これは重要な点であり、当時のフランス航空省はアミオやモランソルニエの現状を、それほど異常とみなしていなかったようである。ベルの評価に頭を痛めた航空省は、ベルを38年に国有化したばかりのポテに案内することとなる。ポテの工場はフランスが最も力を入れて近代化し、生産設備も最新のものを導入した、まさにフランス航空機工業再建の象徴的存在であった。ポテを見学したベルは設備が整っていることを認め、「フランス航空機工業のショールーム」と評しているが、その評価はまた辛辣なものであった。彼は「工場のフロアはクリアでよく組織化され、今まで視察したアミオ、モランソルニエより機械の手入れも良い。」と述べつつも、「しかしながらこれでは航空機の大量生産は不可能」と断定している。

 なぜかといえば、ベルの視察した当時、工場ではポテ63シリーズ量産初期の100機を組み立て中であったが、そのうち大半の作業は発動機未搭載のまま中断されていたのである。イスパノスイザ製発動機の供給不足により作業が停滞、その他の艤装もことごとく供給不足で生産停滞の原因となってしまっている。とくに国際企業として国有化対象外にあったイスパノスイザ社の航空発動機輸出が国内向けの軍用発動機供給を圧迫、このような生産停滞が発生しているようだ、とベルは報告している。要するに、国内航空機工業に対してのフランスの政策が徹底していない、統制が取れていない、睨みがきいていない、というのである。さらに工場の位置するフランス北東部は、ドイツ爆撃機の行動圏内であり、敵にいい目標を提供しているだけだ、といった意見も述べられている。そのような状態であったため、フランス空軍は1937年6月から1938年1月の間に、第一線機を71機しか受領できていない。同じ期間にイギリス空軍は2335機を受領、まだ増産体制に移行していないアメリカ陸軍航空隊ですら293機を受領している。フランス航空業界が壊滅状態にあったことは、この数字からも明らかである。こうした報告をもとに、旧式期の比率の高いフランス空軍と、新型機の増産の著しいドイツ空軍の兵力格差は実質1:3の比率にまで拡大しつつあるとベルは推定している。

 そんな事情を眺めると絶望的にすら思えるが、イギリスがそうであったように、フランスの航空機工業会も程度の差こそあれ、スタートラインは同じように手作業中心の旧式の世界で、そこから新しい世代の設計も材料も、製造方法も違う新型機を大量生産しようという難事業に取り掛かっていたことに変わりはないのである。自分たちが意識して取り掛かっているからこそ恥じることなくベルの視察に応じたのであるし、ベルの反応に困惑したのはそのためである。航空機工業とは、もともとそうした旧式な世界であったのだということを再認識しなければならないだろう。しかしながら、ベルの視察の後、航空機工業の近代化ペースが他国に比べ著しく遅いということを痛感したフランス航空省は、国産新鋭戦闘機が大量配備される予定の41~42年までのつなぎとして、アメリカからの軍用機輸入を試みる。ホーク75、ホーク81(P-40)やエアコブラの輸入はこうして決定されているのだ。それと同時に国内の航空機工業の再編も全力で続けられ、それらは40年6月のフランス降伏までにある程度の成果を示しているのである。

 さて、惨憺たる状況で航空再軍備時代を迎えた航空機工業に比べ、フランスの自動車工業はどんな状況だったのだろうか。その手掛かりとして、当時フランスの代表的自動車メーカーであったシトロエンの乗用車年間生産台数を見てみよう。シトロエンは乗用車の他、商用のバンや輸送車両を製造していたが、ここにあげる数字はタミヤがプラモかしていたりする「トラクシオン・アバン」の生産台数である。これは世界で初めて大量生産、大量販売されたFF乗用車であるが、FFであるためにほかの乗用車より悪路走破性がよく、軍用車両としての適性も多少はあったようである。またシトロエンの創業者、アンドレ・シトロエンはアメリカのフォードの大量生産システムとその思想に大きな影響を受けており、フランスのフォーディズムの体現者でもある。初期のシトロエンには課税馬力5馬力相当の自動車があったが、それを「5CV」と呼ばず、「5HP」と呼んだのは、シトロエンがフォードに敬意を払っていた証拠といえよう。


*1937年 11C生産数不明

※1939年 11C生産数に疑問あり。

この数字を見れば、シトロエンの乗用車生産はすでに手工業から大量生産に突入していることが納得できると思う。上昇者としては比較的高級な「トラクシオン・アバン」でさえこの程度の量が生産できているのであるから、航空機工業界と自動車工業界の生産体制の格差は極めて大きいといえる。

 とはいえ、1934年のシトロエンは本車の開発とその大量生産設備に対する過剰投資によって経営が破綻し、ミシュランに売却されるという苦しい時期にあり、ここから国家の援助をあまり受けず、民需中心で大量生産体制を整えることの困難さがわかろうというものであるし、まさにその原因となった大量生産設備の実力を知ることもできる。シトロエンの実績を眺めると、フランス航空省もイギリスと同じように、この自動車工業の実力を軍用機生産に利用できなかったものか、とも思ってしまうものだが、自動車工業の動員を果たしてフランス陸軍が許したかといわれれば首をかしげざるを得ない。しかしながら一つの事実として、フランスにも、イギリスと同じように「シャドー計画」を行う余地があったことだけは確かなようである。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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