ソ連空軍と日本軍 part.1

 1937年、支那事変勃発とともに送り込まれた空軍志願隊はパイロットを含め総勢4000名弱。支那事変の航空戦は実質的にこの軍事顧問団およびロシア人パイロット主導で行われ、ソ連空軍ドクトリンに沿って作戦が実施されている。支那事変の航空戦については日本側もかなりの記録を残しているため、大きな齟齬は発生してはいないが、この航空戦を通じてソ連は何を学んだのか、ということにはあまり着目されることは少ないように感じる。

 日本空軍のソ連空軍が最も評価した部分というのは、精強な日本戦闘機隊でもなければ、渡洋爆撃を実施した陸攻でもなく、地上軍支援能力であった。地上部隊と密接に連携し、攻勢を迅速に進展させる、「空飛ぶ砲兵」として活動した日本軍機を驚異の眼で眺めている。なぜならば彼らがどう頑張っても足元にも及ばなかったのがこの分野であったからである。ソ連の陸軍ドクトリンに比べればないも同然である日本軍の砲兵火力の貧弱さを、彼らは密接な航空支援で補っている、とソ連軍は評している。戦闘機については負けたという認識は持っておらず、爆撃機については劣勢なものの、日本軍航空基地に対する反撃作戦がある程度成功していること、日本戦闘機が押しなべて低速で、高い脅威とならなかったことなど、彼らの目から見た支那事変は、我が国の戦記から受ける印象と異なっている。

 しかしながら、ソ連側が「これは間違った」と反省した点が一つある。それは航空部隊の前進配備である。戦線から100㎞以内に展開させた彼らの航空兵力は、日本の航空撃滅戦に巻き込まれ壊滅してしまったためである。このためソ連顧問団は航空基地を後方に後退させ、特定の作戦時に全線近くの基地へ機動集中して局地的優位をとるというドクトリンを採用する。これはいわゆる弱者の戦いというやつであり、劣勢な空軍が優勢な空軍に行う作戦の定石のようなものである。日本の戦記では士気の低い支那空軍は奥地に逃げ込み、兵力温存を図って積極的な戦闘を仕掛けなかったと書かれているが、彼らはこのドクトリンを採用した効果として、「奥地の基地に対して航空撃滅戦を実施できるのは空軍の重爆のみであり、その攻撃は小型機による連日の猛攻から月に1~3回の間遠なものになったため、効果が激減した。そのため局地的反撃を実施することができ、1938年に入ると日本空軍にかなりの損害を与えることができるようになった」と主張している。

 陸軍の九五式戦闘機が低速でSB爆撃機を捕捉しそこなった程度で「放置すれば士気の低下を招く」と警告する日本側の報告を読んだとしても、日本の戦記ばかりを読んでいるといまいち戦場で何が起きているのか理解しづらいものがあるが、1938年前半の航空戦は日本の思惑通りにはゆかず、むしろ弱者の戦いを採用したソ連軍事顧問団の想定の範囲内であったということであろう。支那事変がちっとも終わらないわけである。

 さて、ノモンハンのソ連空軍について眺めてみると、おかしなことに気が付くであろう。支那事変の戦訓として、後方配備を学んだはずのソ連空軍は、ノモンハンでは支那事変初期と同じように前進配備を行っている。これはなぜであろうか?理由は、彼らには必勝の確信があったからである。支那事変を通してソ連空軍は日本戦闘機隊の九五式戦闘機の性能を研究し、ほとんど脅威を感じていなかったことと、地上軍への支援密度を上げ、縦深突破作戦に対応したためである。敵戦闘機隊を圧倒でき、突破作戦が成功しさえすれば、日本の前進飛行場は地上部隊の起動兵力が躍進、つぶしてしまうことも考えられるし、後方の基地もソ連の攻撃にさらされ、機能を失うと考えられたのである。しかし5月29日、ソ連流航空撃滅戦第一陣として出撃した戦闘機隊はたった1機しか帰還しなかった。

いったい何が起こったのであろうか。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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