ソ連空軍と日本軍 part.3

ソ連空軍がノモンハン事件以前、九七式戦闘機の大量配備とその実力をあまり認識していなかったということは前述のとおりであるが、前半戦終了後にはすぐに評価を改め、現行複葉戦闘機への未練を断ち切ることとなる。ソ連空軍がI-15系の戦闘機を見限ったのはスペイン戦争でBf109あたりと戦った結果というわけではなく、ノモンハンで高速かつ格闘戦性能に優れる九七戦によって編隊全滅級の損害を受けたことが原因なのである。実際ここでソ連製複葉戦闘機の開発計画は途絶えたのであるし、ソ連複葉戦闘機は、後継機開発との絡みでわずかに生き残るのみとなる。同様に日本軍も複葉の九五戦闘機の最後の舞台となった戦闘となったし、戦闘機にとって高速、重武装、防弾装備が重要であることを悟り、キ43の審査をやり直している。しかしながら、数の上で常に劣勢に立っていた日本軍は、格闘戦性能に優れることの有用性も実感しており、キ43の性能向上案に、格闘戦性能向上型である第一案、発動機強化による高速化を図る第二案が生まれるのはこのためなのである。そして両者ともに武装強化は重要課題として認識されたのである。

 この武装強化についてはソ連空軍はあまり悩まなかった様子であり、日本軍機の棒業が貧弱だったためか、機関銃武装に対しての自信のようなものさえ生まれてしまっている。戦訓を反映したはずのMiG-1/3の武装が今一つぱっとしない理由の一つがこれなのである。もうひとつノモンハンで指摘された重要な点としては、戦闘機と爆撃機の連携の悪さ、これすなわち航空撃滅戦の不成功についての反省である。SB爆撃機の爆弾搭載量、防御火力の貧弱さ、無防備な燃料タンクなどもさることながら、後期になると日本側の飛行場分散、移動などにより効果的な攻撃がしにくくなったことで、「航空撃滅戦は敵基地攻撃と空中戦のどちらに重点を置くべきであるか?」といった問題意識が生まれた。この問題についてはソ連軍自身も基地分散、防御砲火の充実、警戒システムの強化によって日本軍からの攻撃を回避していることもあり、敵基地攻撃を抑制する方向に進んでしまった。この結果まとまった数での基地攻撃は戦闘後半に数回実施された程度で終わり、この傾向はフィンランド戦にまで受け継がれ、独ソ戦中期にまで根強くのこることとなってしまうのである。これによって「航空優勢を確立するための基地攻撃」というドクトリンが形骸化し、その実施に結びつかなくなってしまったのであった。

 戦間期に形成されたドクトリンが日本軍との交戦経験によって有効性を疑われ、其の影響が長く続いたことの裏には、スターリンの大粛清も一役買っている。本来重要であるべきノモンハンの戦訓は深く研究されないまま放置され、戦闘機隊への無線装備の遅れ、空軍全体の機材更新の遅れとなって独ソ戦初期の大敗への結びついていくことは周知のとおりであるが、ここで「スターリン憎し」と書くだけではどうも面白くない。たしかにスターリンの粛清は理論停滞の原因ではあったものの、その停滞の中でもしっかりと研究は行われており、その水準は欧米と比較しても劣るものではなかったという事実はしっかりと覚えておきたいものである。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

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