2度の大戦で戦術はどう変わったか 第2部 電撃戦 (part 1)

 さて前回の記事から結構開いてしまったので、先に前回の復習から入りたいと思う。前回解説を行った浸透戦術は、基本的には一時的に退避壕に退避させる、敵を混乱させるなど奇襲効果を求めた砲撃によって前線を一時的に制圧し、小隊、分隊程度の単位で自己判断で侵攻する権限を与えた部隊を投入し、弱点を縫うようにして後方に浸透する。司令部、通信基地などを破壊し、敵の指揮系統を麻痺させ、遊兵化している敵部隊を各個撃破する、というのが基本的な流れとなる。

 ドイツ軍は、WWI後半からこのような攻勢によって大戦果をおさめたが、同時にまた対処法も明らかとなってしまった。浸透戦術で重要なのは敵を麻痺させることである。つまりは混乱し、麻痺している軍隊にしか効果がなく、相手が初期の混乱から立ち直る前に決める必要がある。そこで、連合軍は防御線と防御線の間に縦深を確保したり、最前線を最低限にとどめ、本命を第二線以降にするなどの対策を行った。これによって何が変わったかと言えば、浸透部隊が軍の要点に到達する前に、軍が立ち直ることができるようになったことである。いったん軍隊が立ち直ってしまえば、所詮小隊、分隊単位で動いている部隊は奥に進めなくなってしまう。これが一次大戦での限界であった。

 時間が足りないのであれば、もっと早く動けるようになればよい。ここまで聞けば読者の皆様もお分かりであろう。戦車、自動車化歩兵の出番である。第一次大戦における戦車というと、塹壕の機関銃等を処理するための兵器であり、機関銃や対戦車ライフルに耐えられればいいだけの装甲板のついたもので、速度も人間とほとんど大差がない物であった。しかしながら、その可能性に賭けた各国は、戦間期にも開発を続け、速度や戦闘能力等の性能はどんどん向上していった。

 当然ながら、その機動力に着目する軍人も出てきた。ここで、戦車に浸透戦術を行わせるという発想が出てくる。こうすることで、徒歩での浸透ではむりだった深さの縦深も戦車と自動車化歩兵では駆け抜けることができる。歩兵の脅威となる機関銃座なども戦車が破壊することができ、突破もスムーズに行えるだろう。しかしながら、これでは電撃戦ではない。では何が必要か?

 それは機動力である。機動力というのは単純な速度のことだけではない。名前の示すように、機動を行う力のことである。すなわち優位な位置を占めることのできる能力のことであり、大別すると突破、包囲、迂回の三種類になるとされる。これは互いに双方がつねに意識をしながら戦うため、いかにして相手よりうまい機動をおこなうかが重要となる。ナポレオンなどの歴史的な天才は、より有効な機動によって名を残すことが多い物である。要するに毎回相手よりも先に機動を行えればよいのだが、そううまくは行かない。よって、敵の機動を妨害、拘束することが非常に重要なのである。そういった観点からすれば、先ほどの浸透戦術も、指揮系統を麻痺させることで、予備隊の機動を妨害し、拘束して戦う戦い方と言う言い方もできる。そして、機動力に求められるのは早さだけではない。スポーツカーで戦場を走ることはできない。すなわち、それなりの耐久力も求められるのである。騎兵の衰退の原因もここにある。彼らは火器で増大した火力に耐えうることができなかったのである。当然早さも求められるがこれについては後で解説しよう。こうした要素を高いレベルで兼ね備えていたのが戦車であり、その戦車での機動に着目したのはなにもドイツだけではない。

 フランスも騎兵の延長としての用法を想定した騎兵戦車を開発、配備しているし、イギリスの巡航戦車もそのたぐいのものである。それどころか、フランスは開戦前ソ連に続いて世界二位の戦車生産数を誇り、戦車の単純な数でもドイツに勝っていたのである。では、彼らの戦術とドイツの電撃戦、なにが違うのか?それはその規模である。他国の戦車部隊が、あくまで従来の歩兵部隊の中での話であったのに対して、彼らは独立した戦略単位としての走行部隊を編制した。そのため他国の戦車がごく狭い地域でしか機動力を活かすことができなかったのに対し、これによって、戦略規模で機動をすることの可能な装甲部隊を編制することに成功したのである。彼らの発想のきっかけはシュリーフェンプランであり、失敗の原因を機動力に求め、機動力を増やすことによって対策を使用という発想に至ったのである。戦略規模とはどういうことかといえば、自分だけである程度自己完結しており、単独で戦闘ができるという意味である。例えば歩兵中隊には補給部隊等の後方支援部隊は存在しない。しかしながら師団規模になれば補給部隊はもちろん、憲兵や会計、野戦病院等、後方支援用の部隊も多量に含まれるのである。軍団、師団、旅団と連隊、大隊、中隊、小隊の違いはここにあるのである。(連隊を増強し戦略単位にした場合は連隊戦闘団等と呼ばれる。)

 話を戻すと、二次大戦を通じ、一部の国をのぞけばほとんどの国の歩兵部隊は最後まで馬車や徒歩による移動が主体の軍隊であった。よく言われる穂先軍備のたとえに乗っ取れば、戦車や自動車化歩兵というのはその槍の穂先にすぎない。この穂先が重要で、これが戦略的要点をつくことのできる鋭利な刃となるわけである。

 ここまでの話をまとめれば、戦車の集中運用によって機動力の有効な範囲を戦略規模に高め、その機動を用いた戦略規模での機動戦といったところだろう。とはいえ、英仏などの戦車が分散配備されたのは理由がなかった訳ではない。一次大戦では増大化した火力に騎兵という今までの機動力が完全に無力化された戦争であり、その反動で、戦車であれど、機動戦は可能なのか?という問題があったのである。そのうえ戦車自体にも当然対応策は用意されており、専用の対戦車砲など、対戦車の兵器の発展もまた、著しかったのである。このため、大規模な機動戦的な攻撃もすぐに火力にうち負け、その力を失ってしまうとの見解が大きかったのである。

 そしてそれらを加味した上で、欧州に目立った敵のいなくなった戦勝国にとって、うまく行くかが非常に怪しい理論等、無理に試す必要はなかったのであった。しかしながらもちろん完全に否定した訳ではない。前述のように戦闘レベルではそれを取り入れていたし、皆に不人気なシャルル・ド・ゴールなどは、機甲師団の創設を強く訴えていた一人であり、実際に対独戦で自身の提案で編成した師団によって独軍と交戦している。(さすがに軍集団規模で運用する彼らには手も足も出なかったが。)

 つまりは電撃戦は、戦勝国に軍備を制限されたドイツの苦肉の策であり、同じ土俵で戦ったら絶対に負けてしまう国が、物を持たないなりに工夫した結果が電撃戦の発展につながったと言うこともできるかもしれない。



 次回に続きます。

とあるミリオタの覚書

適当にネットの海や各種書籍で得たうんちくを垂れ流すだけのものです。 基本自分で読むために書きます。 どこかで見たような内容が散見されるのはご愛敬。

0コメント

  • 1000 / 1000